ご挨拶
遊び心をつめ込んだ「2nd」、別荘として充分な「1st」、自宅としても充分な「山荘」と本格的ログハウス3棟。
全て手造り感あふれるこだわりのログハウスです。
「ログハウスの暮らし」を体験し、そのすばらしさを実感していただければ幸いです。
オーナープロフィール
【 名前 】 | 森 雅平 (M&N FINLAND LOG HOUSE 代表) |
---|---|
【 星座 】 | 射手座 |
【 血液型 】 | B型 |
【 趣味 】 | テニス・スモーク(ハムやベーコン作り)・野菜作り |
【 性格 】 | 一見おっとりしているが、実はせっかち。 |
田舎暮らしの道のりと今後
ログハウスへの憧れ・・・それは一冊の本から始まりました。
平成2年(1990年)、偶然手にした「夢の丸太小屋に暮らす」という一冊の本から始まりました。
以来、いつかログハウスを建てたいとの思いとともにこの『夢丸』は、30 冊にもなりました。
…いつ実現するというあてもなく。
大きなチャンス・・・ビックなお年玉
しかし、その時は突然やってきました。
忘れもしない、平成7年正月の2日、恒例の叔父の家での新年会の席上、叔父から「4人で何か残るものを造ってはどうか」(4人とは叔父の2人の息子と兄と私)との提案があったのです。 私にとっては、願ってもないチャンスです。
他の3人に「皆で使える別荘をログハウスで建ててはどうか?」と提案。皆を説得し、即決しました。
思わぬ行動力・・・・別の自分を発見
それからはどんなログをどこに建てるのか、メーカー選びから建築確認通知の取得、工事施工会社の決定など言い出しっぺの私の仕事です。たまたま叔父も私(母)も那須に土地を持っていたため、叔父の土地にするか私の土地にするか迷いましたが「別荘」ですし、夏の利用を考慮し、山そのもので清流がある叔父の土地に決めました。
清里へ、あるログ販売会社(第一貿易)に紹介され、セルフビルド中のログハウスを見学に行ったところ、その途中路面凍結のため従兄弟の車がスリップし、ガードレールにぶつかりました。そこへ、後続車両が突っ込み車は大破。
…もちろん廃車になりました。 幸いにも怪我人が無かったので、ログハウス見学を強行したことは忘れられない思い出です。
平成7年5月、メーカーを第一貿易(ビンンカ)に決定し、発注。 9月23日那須着に決まりました。
建築予定敷地にある樹木の伐採は 4 人で行いましたが、その後は私の家族で何度か那須に足を運び、基礎工事を行ってもらう業者さんを決定。
建築確認申請は第一貿易からいただいた平面図とダボの必要本数の根拠を示す「構造計算書」を基に私が作製・提出し、確認通知も大田原市の県土木事務所に取りに行きました。
残業が慢性化し、月100時間を越えるような状況が続く中で、時間を見つけて往復約550kmを移動する自分の行動力に「新たな自分」を発見するような思いがしました。
自分のログハウス・・・我が人生の転機
那須ハイランドパーク近くの並木台別荘地に建てたこのログは、約30坪。ログの組み立てから屋根工事までを大工さんにお願いし、我々は、床・天井・仕切り壁・給水・給湯・排水・浄化槽・洗面化粧台・シンク・便器の取り付け、塗装工事などを行いました。工事を進める中で、何をするにも他の 3 人に相談しなくてはならない煩わしさに、せっかちな私が、自身のログを手に入れようと思うまでにそう時間は掛かりませんでした。
そんな折り、共同ログを買った第一貿易の封筒に書いてあったフィンランドのログメーカーの連絡先が目に止まったのです。
英語が不得意な私は、従兄にこのフィンランドのログハウスメーカーが信頼できる会社なのかを、いくつかの質問で確認してもらいました。
しかし、いつまでも従兄の手を煩わせるわけにはいかず、やむなく直接やり取りをするようになりました。
そして、新たなログハウスの見積もり依頼をしたのです…ほんの冷やかしのつもりで。
でも、先方の売り込みは凄まじく、あっという間に(借金の目途も立っていない間に)購入を決意せざるを得ない状況になりました。平成8年2月、融資の申し込みと同時に私のログを発注しました。
もちろん、初めての個人輸入で。…これが『彩1st』の始まりです。
まさかこのことが、人生の転機の引き金を引いた瞬間だったとは・・・
執拗な誘い・・・友人からのお願い
平成8年6月私のログハウスが那須に着きました。この時も共同ログの建築をお願いした福島県の大工さんに設備工事を除く建築一式をお願いしました。
ログ購入を決めて以来、フィンランドのログハウスメーカーの社長であるKAUKO NIINIKOSKI氏から「ログハウスを買う人はいない?」と、毎月電話が入るようになりました。
そして、翌平成9年5月、KAUKO来日の折、初めて彼に会ったのです。
この頃の彼からの電話では「私のログハウスを日本で売ってくれないか?」といった申し出が頻繁にありましたから、初の出会いでもこのことが話題の中心でした。
この時、私は45歳で「主幹」という管理職になったばかりでした。そして人事異動で残業が少ない職場に配属されたのです。
熟慮の上の決断・・・人生一度だけ
一人娘は未だ中学1年生、妻もバリバリのサラリーマン。安定した(この当時は)公務員を辞めて、ログハウスを売る商売などできるはずが無いと思う半面、一度の人生「こんなチャンスは二度とない」との思いもどんどん大きくなっていきました。
(こんなにログハウスが好きだとは自分自身でも驚きでした)
ログハウス販売だけでは安定した収入が望めないと考え、貸し別荘を運営し、喫茶店をやれば生活はできるか?その為の建築計画は?スケジュールをどうするか?・・・
熟慮の末に5年間の準備期間を設ければ実現できるかもしれないとの結論に達しました。
ベストパートナーはフィンランド人・・・誠実な人柄に絶対の信頼
KAUKOには、私が商売を始めるまで5年間待つように話をしていましたが、その間、彼のログハウスを日本で売ることができるようにしてあげなくてはいけないと考えました。(この時KAUKOは第一貿易との取引はしていませんでした)
那須通いで親しくなった建築士でハンドカットログの建築と輸入雑貨の販売をしている会社の社長にKAUKOを引き合わせ、彼のログを販売するようにお願いしたところ「丁度マシンカットを扱いたいと思っていた」ということですんなり取引が始まることになりました。
一方、その頃、同じ市の職員が「森さんにお願いすれば、ログハウスを安く手に入れることができますか?」と突然職場に現れるということがありました。そして、彼が個人輸入でKAUKOからログハウスキットを買う段取をしてあげる事になったのです。
この事をきっかけに、退職するまでの期間はボランティアで個人輸入コーディネートをしてあげる事にしました。
(10棟ほどのコーディネートでお世話をした方々とはその後もとても良い関係を保っています。また、事業開始後のログハウス販売やログ建築に大変ご協力いただき、感謝しております)この個人輸入コーディネートを通じて、商売に必要なノウハウを学ぶとともに取引相手となるKAUKOの人柄に絶対の信頼を確信しました。
ログハウスの貸し別荘計画・・・妻の理解に感謝
「5年間の準備期間」といっても、具体的な計画が出来ていたわけではありません。妻にもはっきり「5年後に商売を始める」といったわけでもありません。ただ妻からは「貴方がやりたいと思っているのであれば、やればいい。やらずに後悔するより、やってダメでもそれの方が良い」という理解ある言葉はもらっていました。
妻の後押しもあり、脱サラ計画は着々と進んでいきました。
まず建築していた自分の別荘の隣の土地が偶然に売りに出されたのです。看板に書いてあった電話番号に電話をしてみました。すると、売主はすぐ近くの「ファンタジア」というドームハウス建築と乗馬クラブを営む会社だったのです。早速その会社に行って話を聞いてみました。先方が売り急いでいたこともあり、坪3万円で購入する事にしました。そして、2年後に2nd の建築が始まるのです。
この当時「貸し別荘」は利用した事はあっても運営したことはなく、どうしたものかと考えていましたが、偶然知り合ったお蕎麦屋さんが貸し別荘業をしていたことから、ひとまずこちらにお任せする事にしました。
偶然(必然)の出会い・・・単なる偶然では片付けられない
脱サラが実現できた要因には多くの人・物との出会がありました。
このうちのどの一つが欠けても、計画通りには行かなかったと思います。
- 土地を那須に持っていた。
- 共同ログ建築に至る過程。
- NIINIKOSKIとの出会い。
- 2nd の敷地取得。
- ログビルダーとの出会い。
- 欲しかった事務所用地の取得。
- 個人輸入コーディネートをした方達の力強い応援。
- 大工さんとの出会い。
- 基礎工事をお願いしている(有)高久工業さんとの出会い。
- HPを作ってくれた部下の存在。
- 妻と娘と母の理解
借金先行型夫婦・・・貯金が苦手な二人。
私と妻は「こつこつ貯金をしてから欲しいものを買う」ということが苦手でした。
従って自宅を建てた時も1stを建てた時も事務所用地を購入したときも「借金」でした。ただ、安定した収入が見込め、月々の返済は無論、残債を退職金で全て返済できるとの裏付があってのことではありました。
(貯まってから実行に移していたら、タイミングを逸し脱サラはできなかったと思います)
欲しかった土地を希望価格で・・・絶妙のタイミングで手に入った事務所用地
2ndの建築が終了したのは平成11年(1999年)4月。退職は3年後に迫っていました。
そろそろ商売の拠点となる事務所用地を確保しなければと考えていました。そして、最適と思われる場所を見つけたのです。
2棟のログハウスからは直線で200m足らず、しかも町道沿いで間口が50m以上もあります。貸し別荘管理上もログハウス販売にも適していると思いました。
当時、この土地の所有者は2ndの敷地の所有者だったファンタジアで、事務所や倉庫が立ち並んでいましたが、その前年に新しい社屋を別の場所に建築し、一部の倉庫だけが使われている状態でした。(ファンタジア代表のファンさんとは土地売買で親しくなり、2nd建築に際してはログビルダーや大工さんなどを紹介していただきました。)
町道沿のこの土地は北側と東側を大きな石で土留めをした造成地という事もあり値段はかなり高いものと予想していましたので、こちらから「欲しい」と言い出せる状況ではありませんでした。そんな折、突然ファンさんから「あの土地を買ってくれませんか」と電話があったのです。しかし、数日の内に代金を支払う事が「条件」だった為、この時は手に入れることはできず、他に売却されてしまいました。この時の落胆は大きなものでした。
しかし、その後、この土地を買った人物が知り合いだという事が判り、「もし、土地を売却するときには是非私に声をかけて」とお願いしておきました。それから1年が過ぎようとしていた年の暮れ、土地の所有者から電話があり「ファンさんのあの土地を買ってくれませんか」というのです。しかも、買値で良いと言うのです。一度は諦めていた土地が平成11年12月、ついに私の手に入ったのです。
退職まで約2年。
退職のタイミング・・・自分で仕掛けた「勧奨退職」
バブル崩壊とともに公務員の世界にも「行政改革」という波が押し寄せていました。私が勤めていた市役所でも職員に対し「行革提案」を出すよう求める事がありました。退職を考えていた私にとっては、願ってもいないチャンスでした。
迷わず「早期勧奨退職制度の導入」を提案しました。提案理由には「53歳以上にならないと優遇されない現在の退職金制度では「早期退職」に踏み切れない。年齢を45歳まで引き下げるべき」などとしました。
結果、これが採用され、平成11年度から13年度の3年間、特別に「早期勧奨退職制度」が認められたのです。
これで退職金は200万円ほど多くなったと思います。(身分が保証されている公務員には失業保険が無い為、この制度ができたことは大変に助かりました)そして、この制度の期限が切れる平成14年3月末日、50歳で晴れて退職したのです。
資金は〆て4,000万円・・・2人で20年働けば貯まります
2棟の別荘建築に2,000万円、事務所建築に1,500万円合計3,500万円(土地取得を含む)が起業をするに当たっての費用でした。
これに当座の生活費として500万円用意しておきました。
私は30年、妻は24年サラリーマンをしていたのですから、退職金を加えれば何とかなる金額です。
何とか暮らした14年間・・・メリハリのある仕事と生活
事業開始に当たっては、「借金はしない」「金儲けに走らない」「積極的な営業はしない」「請けた仕事は誠意を持ってお客様に満足をしていただく」「食えなくなったら二人で働く」と決めていました。
それから14年(2016年5月現在)。ログハウス販売は大小合せて70棟余り、貸し別荘は売上げを伸ばしています。
忙しい時は一日中仕事という事もありますが、1月から6月でログ建築が無い時などは、ずーと「休暇」状態で、畑仕事や庭造りに精を出します。ご近所から「デッキを直して」といわれれば「はいはい」と出かけていくようにもなりました。
ログハウスプランの作成や建築の段取・手配などの緊張した状態とのんびりとした田舎暮らしのメリハリある生活にとても満足した14年間でした。
今後の計画・・・人生「最後の仕事」は農業
2015年6月、Kさんのログハウス建築を最後として、ログハウスの販売と建築業は卒業しました。体力の限界を感じたことと、ログハウスを供給していたNIINI FINLAND 会社との取引が終了したためです。
さて、次のステージは?と思う間もなく、「農業」という終の仕事と巡り合えました。脱サラ当初は「田舎の喫茶店のマスター」が憧れでしたが、体を動かすことのほうが性に合っていることを、建築業を通じて実感しました。
更に、衰退著しい近隣の農業や酪農業を身近に見ていて「何とかならないものか」と思い悩んでいた時に出会ったのが「ムクナ豆」でした。今後は「ムクナ豆」生産と販売を通して「暮らせる農業」の実証を示し、近隣地域に普及させることを人生最後の仕事にしたいと思います。
地元住民との付き合い・・・無理はしない
田舎暮らしを始めるにあたり、地元住民の方達との付き合いをどうするかはどなたも考える事だと思います。
TV番組などで、田舎暮らし実践者の方々が地元の方達といかにうまくいっているかなどと紹介されています。
私は人付き合いがうまい方ではありませんので、無理はしません。自然にお付き合いができればいいし、請われれば協力も惜しまないというスタンスでいます。
美味しい牛乳を分けていただいたり、野菜の作り方を教わったり、できた野菜をいただいたりと、暮らしていれば自然にお付き合いが生れます。
また、地域一斉の草刈などには参加しませんが、自宅前の道路沿いは自分で草刈を行い、皆さんの手を煩わせないように配慮しています。移住した先の方達の考え方もさまざまですから、その場に応じた対応でよいのではと思っています。
那須でも、その地域によって移住者に対する対応はさまざまです。
行政的な立場からは、自治会(地域組織)に加入する事を望んでいますが、移住者の加入を望まない地域もあります。
反対に、積極的に加入を勧めているところもあります。
田舎のルール・・・都会の考えを持ち込むな!
ゴミ:都会では木の葉はゴミとしてビニール袋に入れてゴミ回収日に燃せるゴミとして集積場所に出されます。
しかし、那須でそんな事をしたら秋から冬の焼却場は落ち葉で一杯になってしまいます。
でも、都会暮らしが身に付いた移住者は同じように出します。(出す人がいます)
田舎に来たら、落ち葉は最高の堆肥の材料です。
灯:最低限の防犯灯は必要ですが、シーンと静まり返った「田舎の夜」に都会のような派手な電飾看板を掲げ「客をひきつける」といった商売は、いかがなものか。
田舎の生活をするのですから、地元の人と極端に異なる「物」を持ち込む事は控えた方が良いと私は思うのです。
二居所生活の勧め・・・たまにはお洒落も楽しもう
私はすっかり田舎生活に慣れ、周囲の緑・澄んだ空・鳥の声や稲の匂いに大満足で、都会には出たくありません。
着る物も全く無頓着になり、どこに行くにも同じものを着ています。
しかし、妻は違います。月に一度はお洒落をして、都会(横浜)で友人達と会っておしゃべりする事が必要な事のようです。
そして、将来、わたしが亡くなった後、妻が一人で田舎暮らしを続けられるかと考えてみると、・・・・ 横須賀の自宅は手放しません。
これからは自給自足の時代・・・汗を流して収穫だ !
地球温暖化防止が叫ばれていますが、相変わらず「他人事」と捉えている人が多いように思われます。
でも、私はその影響がすぐ傍までやって来ていて、食料輸入大国である日本はそう遠くない将来に食糧危機の時代を迎えると考えています。まあ、そこまで深刻に考えないまでも、自分のことは自分で始末するというのは、人間以外の動物では「常識」ですから、私もなるべく自然の中に他の動物と同じように生かしてもらっている「人」でありたいと思っています。
特にフィンランドに行って自然と人との係りを目の当たりにして、そう感じるようになりました。
自分で作る作物を収穫したときの喜び、友人に分けて「美味しい」と言われたときの「満足感」。
そして何より自分で作った物の美味しさ!!
汗を流して、落ち葉をかき集め、堆肥を造り、畑を耕し種まき苗付け、草取りそして収穫。美味しくないはずはありません。